大河ドラマ『べらぼう』内容ネタバレ注意!時代背景と出来事の年表まとめ!

大河ドラマ べらぼう ネタバレ 年表まとめ 日常の話

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」

ネタバレ注意。本記事はネタバレを含みます。

江戸時代中期に活躍した『江戸のメディア王』と言われた蔦屋重三郎の生涯を描いた作品。

様々な出会いがある中で成長し、出版業で新たなスタイルを確立して成功し、喜多川歌麿や東洲斎写楽などの有名な絵師を後押しました。

蔦屋重三郎の人生の中で様々な有名人との出会いがあり、江戸の風情や文化・情勢などがリアルに描かれている作品でとても面白く、毎年拝見していますが歴代の大河ドラマで№1です。

大河ドラマは当時の事件や出来事は歴史で決まっており、どう表現するかは脚本や役者次第でもあります。

歴史を軽く知った上で、大河ドラマを見ると「こういった表現か!」「ここにこの人物もいたのか!」など、新しい発見や新たな面白さが見えてくると思っています。

また、大河ドラマを見た後に年表を見返すと面白さが増します。

ここでは、書籍などを調べて登場人物の年表をまとめてみました。

大河ドラマ『べらぼう』内容ネタバレ注意!時代背景と出来事の年表まとめ!

まだ、ご覧になっていない方はAmazonプライム「NHKオンデマンド」で見ることができますので是非見てみてください♪

大河ドラマべらぼうの時代背景

大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、江戸時代中期を舞台にしています。

この時代は、おおむね1730年代から1780年代にかけての期間であり、特に田沼意次(たぬま おきつぐ)が老中として政治を担当していた時代が含まれます。

田沼時代は、利権を巡る争いがあり、商業が発展していく一方で、町人文化も栄えました。

経済の発展に伴い、江戸の町には町人層による新たな文化や風俗が形成され、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった名絵師たちが登場し、浮世絵や文学が盛んに生み出されました。

この時代の重要なポイントは、寛政の改革(1787年)の先駆けとなる経済政策が導入されたことです。

田沼意次は、商業を重視し、農業や商業の発展を促進しましたが、政治的には反対派との対抗もあったため、厳しい施策を打ち出すことも必要でした。

そのため、一時的に文化や商業の発展が見られたが、後に改革により抑制されることになります。

また、江戸の遊廓であった吉原は、蔦屋重三郎が活躍した舞台でもあり、京都や大阪からの影響を受けながら独自の発展を遂げていました。

彼は数々の貸本や出版物を通じて、新たな文化を形成し、庶民の娯楽に貢献しました。重三郎の生涯は、まさにこの時代の文化と商業の交錯を象徴するものと言えます。

主要な登場人物

蔦屋重三郎つたや・じゅうざぶろう

18世紀半ば、人口は100万を超え、天下泰平の中、世界有数の大都市へと発展した江戸。蔦重こと蔦屋重三郎は、江戸郊外の吉原の貧しい庶民の子に生まれ、幼くして両親と生き別れ、引手茶屋の養子となる。 血のつながりをこえた人のつながりの中で育まれた蔦重は、貸本屋から身を興して、その後、書籍の編集・出版業をはじめる。 折しも、時の権力者・田沼意次が創り出した自由な空気の中、江戸文化が花開き、平賀源内など多彩な文人が輩出。蔦重は、朋誠堂喜三二などの文化人たちと交流を重ね、「黄表紙本」という挿絵をふんだんにつかった書籍でヒット作を次々と連発。33歳で商業の中心地・日本橋に店を構えることになり、“江戸の出版王”へと成り上がっていく。

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」より引用

平賀源内ひらが・げんない

“あふれるアイデアで日本の未来を変える希代の天才” 本草家、戯作者、鉱山開発者、発明家…先進的なアイデアを次々と思い浮かべては、その実現のため日本各地を巡り、成功と失敗を繰り返し、ときに山師ともよばれる。その発想に田沼意次もほれ込み、特命を託すほど目にかけている。 蔦重も、地元・吉原に再び客を呼び寄せようと、江戸の有名人になっていた源内に仕事の依頼をすべく接触を試みる…。

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」より引用

田沼意次たぬま・おきつぐ

幕府“新時代”を目指す改革者にして、“絶対的権力者” 自らの才能と実行力で、足軽出身の出自から遠江相良藩(いまの静岡県牧之原市)の五万七千石の大名に昇りつめた人物。米による幕府の財政運営に限界をおぼえ、金を動かしてこそ“経済がまわる”商業重視の政策に方針を大転換。商人を中心に江戸は好景気に沸く。 また印旛沼の干拓、蝦夷地の開発、優秀な人材を幕政に積極的登用し、“新しい日本”を創り始める。

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」より引用

花の井(五代目瀬川)はなのい(ごだいめせがわ)

蔦重の幼なじみで、“伝説”の花魁 吉原の老舗女郎屋・松葉屋を代表する女郎。幼い頃に親に売られ、蔦屋重三郎とともに吉原で育った幼なじみで、何でも話せる良き相談相手。蔦重を助け、時に助けられながら、共に育った吉原の再興に尽力する。 やがて、とある理由から長らく途絶えていた伝説の花魁の名跡“瀬川”を継ぎ、その名を江戸市中にとどろかすこととなる…。 五代目・瀬川は史実に残る“名妓”として知られ、1400両で落籍された出来事やその後の悲運な人生が戯作などで語り継がれることとなる“伝説”の花魁。

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」より引用

長谷川平蔵宣以はせがわ・へいぞう のぶため

時代劇のヒーロー のちの火付盗賊改方 青年時代は風来坊で「本所の銕」と呼ばれ、遊里で放蕩の限りを尽くしたという逸話も持つ。のちに老中・松平定信に登用され「火付盗賊改方」を務め、凶悪盗賊団の取り締まりに尽力する。その人柄も相まって庶民から「今大岡」「本所の平蔵様」と呼ばれて絶大な人気を誇った。

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」より引用

鱗形屋孫兵衛うろこがたや・まごべえ

本屋商売の“師”であり、業界最大の“敵” 大人向けの絵本・黄表紙『金々先生栄花夢』で黄表紙のパイオニアとなった江戸を代表する日本橋(いまの中央区)や深川(いまの江東区)の地本問屋の主。蔦重に初めて本格的な本づくりの仕事を任せるなど、商売の基礎を指南する。やがて蔦重が本格的に本屋業に乗り出すと一転、ライバル関係となり、激しい争いを繰り広げていく。

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」より引用

生涯の年表

  • 蔦屋重三郎つたや・じゅうざぶろう
  • 平賀源内ひらが・げんない
  • 田沼意次たぬま・おきつぐ
  • 花の井(五代目瀬川)はなのい(ごだいめせがわ)
  • 長谷川平蔵宣以はせがわ・へいぞう のぶため
  • 鱗形屋孫兵衛うろこがたや・まごべえ

上記のラインマーカーにて年表を区別します。

※諸説あり、書籍によって多少の誤差があります。

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜放送前のエピソード

  • 1719年田沼意次が江戸に生まれる。幼名は龍助。
  • 1728年平賀源内が生まれる。もともと高松藩の下級武士の子として育つ。
  • 1736年鱗形屋孫兵衛としての活動が確認され、黒本や赤本、吉原細見を手がける。
  • 1737年:19歳で田沼家を継ぎ、従五位下・主殿頭に叙任。
  • 1738年:9歳の頃、掛け軸「御神酒天神」を作成し、近所で評判となる。
  • 1738年:10歳の頃、藩医から本草学・儒学を学ぶ。
  • 1745年長谷川平蔵宣以が江戸に生まれる。彼は池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』においても主人公として描かれ、時代劇ファンにも知られています。
  • 1747年:小性組番頭格に任じらる。これにより、さらに権力が強化される。
  • 1748年:京都の八文字屋本の江戸での販売権を万屋清兵衛から引き継ぎ、江戸における上方出版物の流通に貢献。
  • 1749年:父の死去に伴い、家督を継ぐ。藩の蔵番職に任命され、朝鮮人参の栽培を行う。
  • 生年不詳花の井(五代目瀬川)は奈良町で生まれ、親に捨てられた後、吉原の老舗妓楼「松葉屋」に引き取られる。
  • 1750年蔦屋重三郎が新吉原に生まれる。蔦屋重三郎が生まれた年は、江戸時代中期にあたり、商業活動が活発化し、文化も大いに栄えていた時期です。
  • 1751年:御側御用取次に任じられ、財政改革に寄与。
  • 1752年:学問のため長崎に派遣され、西洋の文物に触れ、本草学を学ぶ。
  • 1755年:量程器(万歩計にあたる器具)を製作。
  • 1756年:江戸に移り、本草学者の田村元雄に入門。本草学を学ぶ。
  • 1757年:7歳の時に母と別れ実母が家を出たことにより、喜多川家に養子として迎えられる。
  • 1762年:池田藩主松平頼恭の内命で日本初の全国規模の物産博覧会「東都薬品会」をプロデュースする。江戸の湯島で開催。
  • 1763年:大著『物類品隲』を出版。
  • 1764年:火浣布を発表し、耐火布を幕府へ献上。
  • 1765年:20歳で家督を相続。
  • 1765年:『火浣布略説』を発表。
  • 1766年:秩父で鉱山開発を行い、資源開発に取り組む。
  • 1767年:側用人に任じられ、老中格に昇進する。
  • 1769年:自ら設計したエレキテル(静電気発生装置)を復元する。
  • 1770年:老中田沼意次の意向を受け、再度長崎に遊学。
  • 1770年:浄瑠璃『神霊矢口渡』を執筆し、初演される。

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜1話からのエピソード

1772年:目黒行人坂火事が発生し、吉原にも影響が及ぶ。火災のあった年の11月に「明和」から「安永」に改元されることになった。

  • 1772年花の井(五代目瀬川)の吉原での生活が始まる。彼女の美貌や教養が評価され、次第に名を馳せる。
  • 1772年平賀源内が羊を飼育し、日本初の羅紗(毛織物)の製造に成功。
  • 1772年田沼意次相良藩57,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任。
  • 1772年:第10代将軍徳川家治の信任を受け、老中首座へ昇格。彼の時代は「田沼時代」と呼ばれる。
  • 1773年蔦屋重三郎が新吉原の大門口五十間道に「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして書店を開業。貸本・小売りの店舗を開店し、本屋「書肆耕書堂」を営む。
  • 1773年:鉄山の開発や炭焼に着手、荒川の通船計画を立案。
  • 1774年長谷川平蔵宣以が西丸書院番の番士に任ぜられる。
  • 1774年: 吉原の遊郭に関するガイドブック「吉原細見」の改編に携わる。この時、平賀源内に序文を依頼することで彼の知名度を高める。北尾重政の『一目千本』を刊行し、すぐに人気を博す。
  • 1774年蔦屋重三郎からの依頼に応えて「吉原細見」の序文を寄稿。彼の文には遊女についての言及があり、大きな話題となる。これは彼の独特の視点を反映している。
  • 1774年:戯作「放屁論」を出版。
  • 1775年鱗形屋孫兵衛が大坂の柏原屋与左衛門・村上伊兵衛の版権を不正重版した事件が発覚。訴訟により、版木71枚と3400冊のうち2800冊が没収され、厳しい処罰を受ける。
  • 1775年花の井5代目瀬川を襲名。この年、江戸中で彼女の名が広まり、大人気の花魁として知られるようになる。
  • 1775年:吉原細見『籬の花』の刊行を開始し、人気を博す。出版業界に進出。
  • 1775年:恋川春町の著作『金々先生栄花夢』を刊行し、黄表紙の出版の先駆けとなる。この時期、彼の手による黄表紙出版が多数出現するようになる。
  • 1775年:高利貸しの鳥山検校によって、1,400両という巨額の身代金で身請けされる。この金額は当時の常識を超えた額であり、江戸中で話題となる。現代の価値で言うと約1億4,000万円もの巨額で身請けされました。

現在ここまで放送

  • 1776年:北尾重政と勝川春章による彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行。
  • 1776年蔦屋重三郎は、コルクの技術を用いた新たな印刷方式を確立し、出版物の質を向上させた。
  • 1776年:『漱石膏』の作詞作曲を手掛ける。
  • 1776年:引き続き黄表紙を発行し、特に吉原細見の版権を蔦屋重三郎に譲り、二者間での競争が生まれる。
  • 1777年:独自の店舗を構え、吉原細見の刊行を開始。この時期に錦絵の出版を一旦終了。
  • 1778年鳥山検校は、借金取り立てが厳しいとして江戸幕府により処罰され、全財産を没収の上、江戸から追放されました。これにより、鳥山検校の高利貸しとしての活動が終わりを迎えました。鳥山検校が江戸幕府により全財産を没収され、花の井(五代目瀬川)の生活も変わる。この後、花の井(五代目瀬川)は家出し、武士または大工の妻になったという説が伝わるが、詳細は不明である
  • 1778年以降花の井(五代目瀬川)のその後の足取りについては諸説あり、具体的な記録が残っていない。戯作者の田螺金魚による洒落本「契情買虎之巻」により花の井(五代目瀬川)の悲恋が物語化され、多くの支持を得ることとなる
  • 1779年:出版事業が軌道に乗るが、平賀源内との接点はこの年までに限られる。大名屋敷の修理計画を巡り、大工とのトラブルから大工2人を殺傷し、投獄される。12月に獄中で死去。
  • 1780年鱗形屋孫兵衛の吉原細見株を買収。ビジネス拡大のために黄表紙や戯作本の出版を開始。
  • 1781年:不正な重版により、鱗形屋は訴訟を受け、孫兵衛は江戸所払いとなる。この影響で鱗形屋は没落する。
  • 1781年:志水燕十が作画した黄表紙『身貌大通神畧縁記』を刊行。

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜後半からのエピソード

1783年:浅間山大噴火により、降灰が江戸に影響し、火災も多発。

  • 1783年:日本橋通油町に進出し、重三郎が「耕書堂」を設立し、出版業界での独立した地位を築く。この店舗は、書籍や版画の販売を中心に、当時の文化を広める重要な拠点となった。
  • 1783年:天明の大飢饉が発生、農民の不満が高まり、百姓一揆が頻発する。
  • 1784年:嫡男の田沼意知が佐野政言に刺されて亡くなる。
  • 1785年:山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』など多数の作品を刊行。狂歌本や洒落本が大ヒット。
  • 1786年:諸国の反発を受け、老中を辞任させられる。田沼意次は、3年続けて老中を務め、幕府の運営に深く関わっていたが、この年に彼は老中を辞任。辞任後も影響力を持ち続けた。
  • 1787年田沼意次が辞任した後、田沼意次の後輩である松平定信が老中となり、寛政の改革に着手。出版取締りが強化される。従来の娯楽関連の出版物に厳しい規制が始まる。これにより、商業活動が難しくなり出版社は新しい戦略を模索する必要に迫られる。
  • 1787年:幕府の改革に関与、松平定信の改革の中で活動。
  • 1787年:42歳で火付盗賊改方(助役)に就任、後に本役に昇進。
  • 1788年:江戸で死去。享年70。彼の死は幕府に多大な影響を与え、後の政治動向に向けた転換点と見なされている。彼の死後、幕府内部での権力闘争が激化した。経済政策と賄賂政治の評価が分かれる時代を生きた政治家である。
  • 1789年:神道徳次郎一味を捉え、松平定信に人足寄場設置を建言する。
  • 1789年:孫兵衛は版元としての活動を続けるものの、廃業に追いやられる。廃業後は、永寿堂の初代西村屋与八の養子となり、二代目を継ぐ。
  • 1790年:出版取締命令により出版物の取り締まりが厳格化される中、依然として多くの作品を発表。しかし、これが後の経営に影響を及ぼす。
  • 1790年:石川島人足寄場が設置される。
  • 1791年:山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』を出版し、重三郎は身上半減の重過料、財産の一部を没収される。
  • 1791年:葵小僧を逮捕し処刑する。
  • 1794年:東洲斎写楽の役者絵を多数出版。蔦屋重三郎のもとで写楽が重要な作品を多数発表。写楽は当時の江戸で特に人気を博し、蔦屋重三郎の業績をさらに高める。
  • 1795年:5月16日に火付盗賊改方を辞職。辞職後の5月19日に死去。
  • 1797年:脚気により亡くなる。蔦屋重三郎の死因は、江戸の出版業界における困難な状況を反映している。蔦屋重三郎の死は出版業界に大きな影響を及ぼし、新たな版元の台頭を促すこととなる。

蔦屋重三郎の人生

重三郎は、特に吉原遊郭の文化と発展に大きく貢献した人物であり、彼が扱った作品はその時代の重要な文化的現象を反映しています。

彼は商業的成功を収める一方で、いかにして感性豊かな作品を世に送り出すかという点でも先駆者となりました。重三郎は版元だけでなく、プロデューサーとしても知られ、浮世絵の発展に関与しました。また、彼は「江戸のメディア王」とも称され、その影響力は出版業界全体に波及しました。

さらに、蔦屋重三郎は後の日本のメディア業界においても大きな影響を与えました。その名は、現代の総合レンタル業者「TSUTAYA」の名の由来ともなっています。彼のビジネススタイルや出版物は、商業出版のルールに新しい形を与え、文化の流行をファシリテートする役割を担いました。

彼の死後も、その業績は多くの作家に影響を与え、蔦屋重三郎は単なる版元以上の存在として、江戸文化の象徴になっています。

まとめ

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は本当に面白く、人情あふれる江戸の町が描かれていて毎週楽しみです。

江戸の粋な人情や文化が好きで、様々な人間関係が織りなすドラマが引きつけます。

歴史は決まっており、表現の仕方が人によりどのように描かれるかを予想するのも楽しみの一つたと思っています。

個人的には、4話で退場した『唐松』は『東洲斎写楽』なのではないかと勝手に考察しています!

歴史には載っていない出会いを想像するのも大河ドラマの醍醐味です!

前々作の『どうする家康』は有名な徳川家康なので、教科書に載っておりご存じの方も多いと思います。

今回の蔦屋重三郎は歴史の教科書にも一部しか載っておらず、マイナーな人物だと思ったので私と同じ楽しみ方をしたい方に少しでもお役に立てれば幸いです♪

コメント

タイトルとURLをコピーしました